最終更新日:2017年4月11日
画像:エドアルド・キヨッソーネの版画
人物「西郷隆盛」あらすじ(歴史)まとめ
2018年のNHKの大河ドラマが「西郷(せご)どん」に2016年9月8日、決定しました。
明治維新から150年となる2018年、日本の歴史上の人物で人気の西郷隆盛が主人公です。
まず、「西郷隆盛」のあらすじ(歴史)を一言でまとめます。
・明治維新の三傑で踏んだり蹴ったりの人生を歩んだ人気者
西郷隆盛は文字通り古今東西の人々にモテています。
生前時、西郷隆盛に出会った人は愚直だが愛嬌のある「西郷どん」が好きになったそうです。
没後もその人気は衰えず、同じ明治維新の三傑で同郷の大久保利通とは段違いの人気を現在の故郷の鹿児島で誇っています。
幕末の大混乱のど真ん中で生きた西郷隆盛の人生は、鹿児島と京都を往来しながら誤解などもあいまり島流しを繰り返すなど波乱万丈でした。
では、世の中のあらゆる物語、事象のあらすじを解説する「あらすじ大全」が「西郷隆盛」のあらすじ(歴史)をご紹介します。
目次・西郷隆盛
・頑張るも島流し
・長州藩を撃退
・大政奉還で活躍
・反乱軍の盟主に
・うんちく情報
人物「西郷隆盛」のあらすじ(歴史)
薩摩藩で頑張るも島流し
文政10年12月7日(1828年1月23日)、現在の鹿児島県鹿児島市加治屋町で生まれる。
天保10年(1839年)、仲間たちの喧嘩の仲裁で大怪我を負い、刀を握れなくなり学問一筋で生きると決めた。
嘉永5年(1852年)、伊集院兼寛の姉・須賀と結婚。
安政元年(1854年)、薩摩国の藩主の島津斉彬の江戸参勤に際して江戸に赴き、碩学・藤田東湖などから教えを受ける。
安政5年(1858年)、藩主の斉彬が逝去、主の意思をつぎ大老・井伊直弼を排斥して幕府を改革しようとするが失敗、逃亡生活に入る。
幕府の追求を恐れた薩摩藩から追放命令を受け、絶望して自殺未遂を図るも生存。安政6年(1859年)、薩摩藩から奄美大島への潜居を命じられて隠居生活に。
奄美大島では龍家の一族、佐栄志の娘・とまを島妻とする。中立の立場を守りつつも長州藩を撃退
文久2年(1862年)、薩摩藩から許可をもとに仕事に復帰する。
大阪に赴き、激派志士たちの京都焼き討ちなどを止めようとするも西郷が志士を煽動していると藩に伝わり捕縛され、沖永良部島(奄美大島の離島)まで飛ばされる。元治元年(1864年)、大久保利通らの勧めもあり薩摩藩に復帰、京都に赴任して外夷との密貿易を行っていた薩摩商人の取り締まりなどに奮闘する。
元治元年7月19日(1864年8月20日)、禁門の変。京都に長州勢が押し寄せてきており、西郷は幕府の出兵命令は断るも長州勢を撃退する。長州か幕府による朝廷の独占を阻止する中立の立場を維持する。
元治元年(1864年)、長州藩追討の朝命(第一次長州征伐)が出て長州藩征伐の任にあたるも、勝海舟と出会い長州藩三家老の処分などで穏便に済ませることに成功する。
大政奉還、江戸城明け渡しと大活躍
慶応元年(1865年)1月28日、家老座書役・岩山八太郎直温の二女・イト(絲子)と結婚。
慶応2年(1866年)1月、薩長同盟。小松帯刀邸で犬猿の仲だった長州藩の桂小五郎と薩長提携六ヶ条を密約した。提携書に裏書きしたのは坂本龍馬。
慶応3年(1867年)、土佐藩と共謀して幕府を武力で倒す薩土討幕の密約を交わして幕府への圧力を強めていく。
慶応3年12月9日(1868年1月3日)、江戸幕府を廃絶して摂政・関白等を廃止。代わりに新政府の樹立を宣言した王政復古の大号令の発布に成功する。
慶応4年(1868年)、旧幕軍と、新幕府の先鋒隊の薩長の守備隊が衝突し、鳥羽・伏見の戦いが始まる(戊辰戦争開始)。
西郷は新幕府軍として旧幕府軍と戦い、勝海舟との会談を経て旧幕府軍の江戸城明け渡し(無血開城)に成功する。新幕府と揉めて地元に帰り、士族の反乱軍の盟主に
明治4年(1871年)、岩倉具視らが欧米各国との条約改正の外交使節団として海外に赴き、西郷は三条実美らと共に留守内閣(留守政府)を任せられる。
明治元年(1868年)、李氏朝鮮が維新政府の国書の受け取りを拒絶。西郷は武力ではなく、自分が全権大使になる(遣韓大使論)を主張する。外遊から帰国した木戸孝允・大久保利通らの内治優先論が決定され、西郷は辞職して鹿児島に帰った。
明治9年(1876年)、廃刀令などで士族が帯刀と知行地など特権を奪われて怒りを感じ、各地で士族の乱が起きた。
1877年(明治10年)、西南戦争。鹿児島の士族たちが幕府に反乱を起こす。西郷は盟主となり軍議などに顔を出していたが、最終的には戦闘の指揮に立つ。1877年(明治10年)9月24日、政府軍の攻撃を前に命を絶つ。
「西郷隆盛」のうんちくポイント
・身長は五尺九寸八分(179cm)、体重は二十九貫(116kg)
・主人の島津斉彬が病没した際は、墓前で切腹しようとした
・西郷隆盛の銅像が東京の上野公演にあるのは最終的に新政府に反乱したものの、武士の不満のはけ口をやむなく代表した面を新政府も理解していたため
・西郷隆盛は写真嫌いで、一般に流布されている画像は弟といとこを元に画家のキヨッソーネが描いた
・上野公園の銅像を見て西郷隆盛の妻が「うちの人はこんな人ではない」と言ったのは、顔のことではなく「浴衣姿では人前には出ない」という意味
・1877年の西南戦争は現時点で日本国内で最後の内戦となった
・那波列翁(ナポレオン)伝というナポレオンの伝記を愛読していた
・坂本龍馬から「少しく叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く。もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だ」と評される
・板垣退助、山縣有朋など多くの偉人から傑出した人間力を絶賛された
「西郷隆盛」のあらすじ(歴史)をまとめました
以上、世の中のあらすじ・歴史・変遷をまとめる「あらすじ大全」による「西郷隆盛」のあらすじ(歴史)情報などまとめでした。
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